“My way”に対する違和感

2010年11月

おそらく温暖化問題に限らず、一般的に世界の重要問題と考えられる問題に関わっている研究者は、実は、いつも倫理的な問題に悩まされている(と思う)。それは、「あなたが取り組んでいる研究は、なぜ世界にある他の様々な矛盾や困難よりも重要なのか?」という問いにどう答えられるか、という問題である。

かつてマハトマ・ガンジーは、インドの国会で議員たちに対して「あなた方が政策を提案するときには、常に、あなたがこれまで出会った最も貧しい人たちの顔をまず思い出しなさい。そして、あなたの政策が、彼らにどのような影響を与えるのかを考えなさい」と説いた。このような問題意識で研究に取り組んでいる、あるいは人生を生きている研究者はどれだけいるだろうか。

もちろん、「長期的あるいは間接的には、状況の改善に何らかの形で貢献する」と言うことはできる。しかし、多くを投げうって、より直接的に関わっている人もたくさんいる。皆が皆同じことをやったとしても、必ずしも状況がよくなるとは限らない…と思ったりもするが、「逃げ」のような気もする。「自分はその他大勢よりもまし」というのもあるが、あくまでも比較論であって、これも正面からは答えていない。

そういう設問自体が意味ない、という批判も可能かもしれない。人生は二者択一ではないし、実際には、多くの人は、自らの人生を選ぶことも難しい。世界の状況を知らない人も多いし、知らないことが悪いと一義的には言えない。しかし、この情報化の時代、知ろうと思えば、なんでも知ることができるのも事実だとも思う。

結局は、「ガンジーと自分は違う。自分は自分の道がある」と考える、つまり「ヒラキナオリだけが人生だ」と開き直るしかないのかもしれない。ただ、そうは言っても、それに対するいくばくかの「恥ずかしく思う感情」は持ち続けていかなければ、とも思う。だから、原曲のComme d’habitudeは好きなものの、英語版の“My way” を聞くと、いつも恥ずかしさと怒り、そして少しばかりの羨ましさが混じった「違和感」を感じる。

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